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読んでやる! basis 基礎 見るⅠ
脳で見る

 「見るⅠ」は、眼の見え方がどのようなものか考えます。このページでは「脳で見る」を取り上げました。

脳で見る

 対象物を見たとき、眼球から脳へ情報が送られ、脳に映ったものを脳が読み取ります。読み取った情報により、行動や、理解、創造などの知的活動を行います。

 しかし、私たちは、脳で見ているという実感がありません。
 そのため、本を読むとき、文字を頭の後ろとか、脳の後ろの方で見る感じとかいう人がいます。確かに、私には少しばかりの効果がありましたが、継続して安定的には読めませんでした。このイメージは、結局、眼球で見ることを意識しています。実際は脳で見ているのに、です。

 私たちは、見るということに2つの感じを持っています。1つは眼球で見る、もう1つは脳で見る、です。ですから、よく見なさいと言われると、眼球を操作して、焦点を合わせたり、視線を動かすのです。眼球を動かさなければ、対象物は見えませんが、見つけるのも見るのも脳がしています。脳が眼球を操作しています。
 よく言われるのは、眼球はカメラレンズ、です。眼球の役割は、外界の光を情報として脳に送る役割をしています。眼球に、状況を理解する機能はありません。
 眼球から、脳に情報が送られます。送られてきた情報を、脳が、見たり、理解したり、加工したりします。眼球から送られた情報を基に、脳が次にどのように見るかを眼球に指示します。この繰り返し、眼球との相互活動により、ものを見ています。

 ものを見るとき、2つの見方があります。
 1つは、眼球を意図的に操作して、脳がそれを見ることです。もう一つは、脳に映った映像を見て、眼球の自動操作を脳に任せることです。この2つの見方を無意識に使っています。いつも、どちらか一方のみを使っているわけではないようです。

図4-1
図4-2

 見えるということでは、どちらも同じです。しかし、眼球の疲労や、情報のスピードと質が違うように感じます。私たちは、通常、この2つの見方を意識することなく、使っているはずです。「眼球の操作」と「脳に映った映像」のどちらを意識するか、ということです。言い換えると、「眼球で見る」のか「脳で見るのか」、です。
 眼球を操作して対象物を見ると、情報を読み取りにくく、疲れやすい感じがします。視野に映った映像を見て、どのように見るかを脳が眼球に指示をする場合、脳のニーズに応えて、眼球は自動的に動く感じがします。そして、疲れにくい感じがします。

 どのようにすれば、「脳が見ている」ことがわかるのでしょうか。
 眼球で捕らえた視界が、そのまま、脳の視野になるとします。
 (※ ここでは、外界を眼球で捕らえたものを「視界」、送られた情報が脳に映ったものを「視野」とします。)
 文章を準備し、どれか1文字に焦点を合わせます。文字の見え方を、その1文字しか見えないように眼球を操作します。この状態で文章を読むには、眼球を動かして、1文字ずつ順番に焦点をあてていくことになります。
 次に、先ほどの1文字に視線をむけ、それを中心として、できるだけ広い範囲をはっきりと見えるようにします。すると、視線の中心から離れた何文字かは、はっきり見えます。眼球の視線を固定した状態で、いくつかの文字を読むことができます。
 同じ文字に視線を向けているのに、眼球の使い方で、一方は1文字だけ、もう一方はいくつかの文字、を読めます。1文字だけの方は、次の文字を読むとき、眼球の視線を動かします。これは、眼球で捕らえた視界が、そのまま、脳の視野に映ったことを意味します。そして、同じ視線にもかかわらず、1文字だけと、いくつかの文字が見えるという差があります。この差により、眼球ではなく、脳で文字を読んでいることがわかります。
 このようにしても、脳で見ていることを実感できないかもしれません。しかし、理屈から言えば、眼球はレンズで、見たり読んだりしているは脳、ということになります。

図4-3

 脳が見ていることの例として、「錯視」があります。静止したものが動いて見えたり、同じ大きさのものが違う大きさに見えたり、同じ色が違う色に見えたり、することです。
 この例を取り上げるのが、よかったのかもしれません。しかし、私は、2つの理由でこれを断念しました。1つは、私たちの日常生活から、できれば読書から取り上げたかったこと。もう1つは、すべての「錯視」が脳で見た結果であるとは、私には思えないことです。
 その理由は。眼球の細胞には特性があります。この特性で捕らえられる、範囲外、類似した対象物を見る場合、正確な情報を得られないはずです。その結果、眼球は、その情報を歪(ゆが)めて脳へ送っているかもしれません。外界の状況と、眼球で捕らえた情報は、いつも一緒とは限らないということです。「錯視」がどの段階で起こるかということです。歪んだ情報を眼球で作っているのか、視野に映った情報を脳が読み誤るのか、ということです。また、人によって「錯視」にならないことがあります。
 ※これは、私の勝手な考えですので、取り扱いには注意してください。

更新記録など

2016年10月4日(火) : アップロード
2018年5月31日(木) : 『意識と無意識ⅠⅡⅢ』追加による構成変更。