文字は不自然
人は生まれてから、徐々に聞いたり話したりします。そして、長い時間をかけて、言葉を覚え続け、使い続けていきます。聞く話す、そして、文字を読むなどの方法は、人にとって、どのようなものなのでしょうか。
お母さんのお腹の中にいる時から周囲の話を聞いているという学者もいます。そして、ヒトは生まれてから、親兄弟や他の人と過ごす中で、言動を見聞きして、言葉を理解し話すようになっていきます。人の行動が何であるか理解し、それをどのように言っているのか覚えます。それと同時に、喃語(なんご)を発し、声を出すことを覚えていきます。
聞いて理解する方が早く、話すのはそれより遅れるようです。言葉の話せない、歯が生えかけてきた1歳児くらいに、かむように言うと、口に入れた指をかまれたことがありました。自分の意志を相手にわかるように話すことより、人の言うことを聞いて理解する方が、早いようです。
ヒトは、言葉を聞いて覚えています。聞くことが大本(おおもと)であり、聞くことがなければ、言葉を理解するのは難しいようです。生まれてから、しっかりと人の会話を聞くことで、言葉の意味や法則を身につけていきます。ですから、聞こえない話せない見えない人にとっては、言葉を覚えることは、かなり困難です。しかしながら、まだ、触れたり震動があったり温もりがあったりと、他の感覚から、言葉がどのようなものか理解できる人もいるようです。
言葉を覚えるのは、聞く見る話すだけと思いがちですが、その他の感覚も使っていることがわかります。人が言葉に接する時、全身を使っています。
しかしながら、人が情報を得る最大のものは、視覚です。そして、視覚から得た情報の中で、脳が最も注目するのが顔だそうです。景色の中に顔の形があると、すぐにそこに視線を向けるそうです。これは人に限ったことでありません。頭の後ろにお面をつけると、虎は後ろから襲いにくいのだそうです。これは、目は口ほどにものを言う、のことわざどおりです。
顔には、目がついています。人が顔を見た時、形として、そうだと判断します。目がある、鼻がある、口もある、そして、動いている、生きている、あっ、生き物だ、という風に。しかし、順番にチェックしながら、最終的に顔であるとの結論に行き着くのではありません。一瞬にして、その形があれば、顔とわかります。それだけに、葉と枝、光、影の状況から、顔と見間違うこともあります。
人は、形でそれが何かを断定しています。もちろん、声や生態なども大切な要素です。しかし、ほとんどの情報を視覚から得ていることから考えると、形の捕らえ方は重要です。このことは、景色の中で、虎を見つけた時、すぐに、危ないと感覚としてわかります。心のなかで、虎と叫ばなくても、危ないことはわかります。
しかし、あらかじめ、虎がかみつき人の命を奪う動物と知っているから、その感覚になります。人は、形でそれがどのようなものなのかを一瞬でわかるようにできています。人だけでなく、動物も同じだとは思います。
道路標識はどうでしょうか。いろいろなものがありますが、図形や絵にしなくても、文字で詳しい表記にしてもよさそうなものです。
例えば。「次の交差点を右折できません。直進は、午前7時から午前9時まで通学路のため通行止めです。左折は、終日一方通行です。どの道路も鹿や猪が飛び出してくるので注意してください」と、書かれた標識があったらどうでしょうか。読むのに時間がかかることでしょう。毎日、通る人ならわかっているので抵抗はないかもしれません。しかし、はじめて通る人にとっては、読むのに時間がかかり、車を止めなければならないかもしれません。
図形や絵にするのは、一瞬でそれが何を表しているのかをわかるようにするためです。図形や絵の意味を覚え、それを見ただけでわかるようにしています。図形や絵も種類は限られ、見ただけで意味のわかるものもあります。
ですから、猟に行った時、動物の形を見たら、捕るべき獲物かどうか一瞬で判断できるのです。人にとっての形は、言葉を必要とせず、すぐにわかるようになっているようです。しかし、これは日頃見慣れている形で言えることです。初めて見るものは、じっくりと見て、動きを確認し、捕まえても、食べられるかどうか調べてみないとわかりません。
人が、スポーツや描画など身体を動かしながらするものは、状況や形で判断しているようです。
次に、文字を考えてみます。
まず、文字の形、大きさについてです。幼稚園くらいの子どもに、大きい文字「あ」とそれを縮小した「あ」を見せて、同じものか聞きます。子どもは「違う」と答えます。子どもは、形は同じようだが、大きさが違うので、別のものだと判断するようです。実は、私も幼稚園の頃、年長の人から同じことを聞かれて、「違う」と答えたことを覚えています。私の場合は、形や大きさ云々(うんぬん)というより、まったく違ったように当時は見えました。
ところが、小学校で文字を勉強し出すと、意味を主にするのか、形が少々崩れていようが、大小があろうが、同じと答えるようになっていきます。自分が文字を書くと、同じ文字でも、微妙に形が違います。その経験によるかどうかわかりませんが、少々違っても、形が示す意味は、同じ文字だと納得していくのでしょうか。そして、意味から見た文字の形は、それとわかる範囲があります。その範囲を超えて同じ文字だと言うのは、こじつけに感じることがあります。
文字と意味と形ということでは書体があります。楷書(かいしょ)、行書(ぎょうしょ)、草書(そうしょ)などです。使い慣れている人は、楷書と草書が同じ文字に感じられ、意味を主に理解しようとするでしょう。知らない人は、文字の形が何を表しているのかから手かがりを探すはずです。
使い慣れているか、知っているか、見たことも無いかで、文字に接した時の態度は変わります。
次に、言葉のやり取りについ考えます。
会話をする時は、話す相手と自分とが言葉のやり取りをします。ラジオやテレビなどは、一方的に、音声と画像が送られてきます。文字は、自分から読みに行かなければなりません。会話は双方向で受動と能動であり、ラジオなどは受動的、読みは能動的な行動と言えます。文字を読む行為は、能動的に見ることで、文字を受け取るという受動的な状態をつくっています。
このように見てくると、文字や文などは、記号と言葉のやり取りにおいて、人にとって不自然なものと言えます。動物としての人から見た場合、文字を見て書いてある内容を理解することが不自然だということです。聞いたり話したりと、音だけでコミュニケーションはできます。
自分で本を見て資料を集めて独学するより、塾や予備校に行く方が楽です。それは、人から聞いたことの方が頭に残るからです。先生の話す姿を見ながら話を聞き、わからないところは質問できます。
印象に残りやすいというだけではありません。先生が習得してきたエッセンスを聞くことができ、密度の濃い学習になります。何冊もの本に相当する知識、何年にも相当する経験を知ることできます。人から話を聞くことは、感覚までをも学ぶことができます。
ですから、動物として考えた場合、読書ができるのは、特殊技能を持っていることになります。
人は、学校で、文字、文、文章、本を読む特殊技能の習得をしています。
しかしながら、私の感触からいうと、読書能力の個人差は、かなりあると思います。学校では、文字や言葉、文法などは教えても、身体の使い方は教えてくれません。そして、本を読めと連呼しますが、読書の方法については具体的に教えてくれません。本の読み方について、確立した方法がないからです。ですから、人によっては、読めば読むほど下手な身体の使い方をし、読書が嫌になっていくのです。経験に照らして工夫し、自分で体得するしかないのが現状です。
しかしながら、その方法がありさえすれば、何人かは、読書能力の改善ができるはずです。問題は、その方法、です。
【まとめ】
人にとって、本を読む行為は不自然。
確かな方法で訓練すれば、読書能力の向上はあり得る。
以下余白
更新記録など
2016年12月21日(水) : アップロード
2018年5月31日(木) : 『意識と無意識ⅠⅡⅢ』追加による構成変更。