切り替え
意識と無意識を活躍させるには、雑念への対処の方法を工夫したいところです。
たとえば、テーマパークに行き、お気に入りのアトラクションを見つけたとします。帰宅後も、そのことが頭の中にずっと残っていて、何をするにしても上の空です。
寝ても覚めても、テーマパークのアトラクションに意識が残っている状態です。これでは、次から次にこなさなければならないことに対応できません。対応したとしても、結果が不十分なものになりかねません。
これに対処する方法として、「気持ちの切り替え」が欲しいところです。
本人が、次のことに気持ちを切り替えたくてもできないこともあります。そして、明確に気持ちの切り替えのできる人もいます。
たとえば、学校の休み時間に楽しく遊んだあと、授業が始まってもそのことが忘れられないことがあります。授業中にもかかわらず、コソコソとやり取りし、次の休み時間も遊ぶ約束をするのです。しかし、同じ遊び仲間の中に、あたかも人格が変わったかのように、先生の話を聞く同級生がいたのです。
なぜ、気持ちの切り替えができないのか。どうすれば、気持ちの切り替えができるのか、です。
1つ思い当たるのは、「現実を認識し、意識できるか」にかかっていることです。
「今、置かれている場所、状況など」と「ここで、何をするのか」を理解し判断し実行することです。ここでは、過去を引きずっている状態です。今、ないもの、できないことを空想していると言えます。なので、今、直面していることに意識を向けるようにします。
先ほどのことでは。「休み時間運動場にいて同級生といる」と「探偵ごっこをして遊ぶ」を理解し実行すること。休み時間が終わると「教室にいて先生がいる」と「授業を受ける」を理解し実行すること、となるのでしょうか。これを意識して行動することです。
ここで気をつけたいのは、価値観を持ち込まないことです。遊ぶことはくだらないとか、授業をちゃんと受けないと損だ、とかです。単純に、気持ちの切り替えだけに意識を持つようにします。
「ケジメ」ともいいますが、ここでは、「気持ちの切り替え」としました。ノリのよさなら「チェンジ(change)」でもいいと思います。
この「気持ちの切り替え」は、雑念をなくすというよりは、物事に集中させる方向にあります。「今、ここ」を意識して実行することで、やがて、無意識でできるようになると思われます。
無意識になるまでに時間がかかりますし、すべてのことに効果があるとは限りません。「今、ここ」を繰り返して、何とかその場を凌(しの)いでいく感じだと思います。
先ほど述べたことは、「休憩時間中の遊び」と「学校の授業」で、行動の前後がまったく関係のないことでの気持ちの切り替えです。
次に、ある物事をしているときに、気になるが、直面していることに、あまり関係のないこと、への気持ちの切り替えです。
たとえば、本の誤植、板書する先生が文字の書き順を間違えたとき、などです。
文脈から明らかに誤植だとわかる場合は、気にせず、そのまま読み進めると思います。誤植だが、その文字が存在する場合、調べたくなることがあります。そして、深入りして、読んでいる本の内容とは、まったく別の話題へ脱線してしまうことがあります。
書き順の間違いが気になる人もあるようです。気になり出すと、先生の話に身が入りません。授業の内容に集中できなくなります。
ここでも「今、ここ」が役立ちそうです。
「今は本を読んでいる」「この本の言いたいことは何か」を理解し判断し行動することになります。誤植は、ちょっとだけ受けとめて、流す感じです。誤植は本筋に関係がないので、まともに取り合ないようにします。しかし、無視をするわけではありません。
書き順の間違いも同じです。授業の本筋と違うのなら、軽く受け流すに限ると思います。
一旦は軽く受けとめても、本筋とは違う方向に行く気持ちを流すこと。別の言い方をすると、別のことが気になりだしたら、意識的に本来の内容に向かうよう気持ちを整えること、と言えます。
この場合の気持ちの切り替えは、気持ちの流れを本筋に切り替えたり、戻したり、整えたり、することです。
今していることに深く関係していて、それが気になって仕方がない場合です。
たとえば、本を読んでいて、わからない文字が出てきた場合です。この場合、わからない文字を見るとすぐに調べたくなります。すぐに文字を調べて、その言葉の意味はだいたいわかったとしても、読んでいるところの文脈に合わないこともあります。どうしてよいのか、わからなくなり、読書に集中できないことがあります。
この時、意識が、「文字がわからない」に向いてしまい、本の内容を理解するという目的から外れようとしています。
確かに、わからない文字を調べて意味を知ることは、内容を理解するうえで欠かせません。そういう意味では、調べることも本筋の中の1つと言えます。
しかし、本の内容を理解するという目的では、文字だけを調べても満足のいく結果を得られないことがあります。まずは、わからなくても、区切りのよいところまで、読んでしまうことです。区切りのよいところとは、1文、1段落、1項、1章、1冊の終わりです。
世の中には、わからないこともありますし、時間の経過や経験を積むことで、理解できるようになることもあります。わからないことで、気持ちが揺れ動くことの方が、内容を理解するうえでは影響が大きいようです。
わからない言葉が出てきた場合、その言葉を認識することは必要ですが、読み進める意識を持ち続けること、でしょうか。言い換えると、わからない言葉を後で調べることにし、読み続けること、となります。
「わからない言葉を認識し、後で調べる」ことを無意識するのがよいと思われます。内容の理解に意識を使えるからです。
わからない言葉が出てきたとき、意識的に「わからない言葉を認識し、後で調べる」ことになります。同時に、内容を理解する意識を強く太く持つことで、「わからない言葉を認識し、後で調べる」ことを、なかば無意識にできるようになるかもしれません。読みに与える影響は少なくなると思います。
「わからない言葉を認識し、後で調べる」は、本筋と共にあるため、無意識でできるようになるのは難しいようです。
参考になるのは、「素読(そどく)」です。昔の人は、漢字ばかりで書かれた『論語』などを声に出して読んでいたそうです。意味がわかろうがわかるまいが、です。「わからないことを知っているが、知らん顔をする」といったところでしょうか。
無意識で「わからない言葉を認識し、後で調べる」ことを意識する、となります。そして、一区切りの後、意識して調べることになります。
ここでも「今、ここ」を活用できます。そして、「先(さき)」または「前(まえ)に」を加えます。
先ほどの例では、「今は、読書をしている」「ここは、内容を知ろうとしている」「先は、次を読まないとわからない。または、次は何を言うのだろう」とでもなります。
まとめると次のようになります。
心を乱されることは様々なケースがあります。しかし、そのことの本来の目的を意識し、目の前にある現実に対応し、前に先に進める、こと。これが、「気持ちを切り替える」1つの方法と言えます。
「『今(いま)』『ここ』『先(さき)』」
または
「『今(いま)』『ここ』『前(まえ)へ』」
以上のことは、本人の心の持ち方について述べています。他人との相互関係ではありません。
更新記録など
2018年5月31日(木) : アップロード