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読んでやる! basis 基礎 意識と無意識Ⅱ
最適な状態とは

 ここでは、円滑な活動をするのに、意識と無意識に最適な状態があるのかを考えます。

最適な状態とは

 ここでも便宜上、意識と無意識を分けて考えます。
 私たちが活動する時、いくつの意識を持っているのでしょうか。意識をいくつの場合が、最も効率よく活動ができるのでしょうか。

 何かをしようとする時、ある方向性を持った意志を意識します。そして、行動が始まると、その意志は意識からなくなります。しかし、その行動がなくなるまで、無意識のどこかで働いているようです。
 例えば、本を5ページだけ読もうと思った時、本を開き、読み始めると「本を読もうと思った」意志は、意識からなくなります。しかし、5ページ読むまでは、読むという意志は、心のどこかにあります。
 目的を達するまでは、方向性を持った意志は、無意識の中で働いているようです。

 さて、次に、方向性を持った意志の行動開始から目的達成までに起きる意識です。
 おそらくいろいろな意識が出てくることでしょう。「どこから読み始めるんだっけ」「この漢字は何だっけ」「まだ2ページ」等々です。
 同じ時に、2つのことを意識することがあります。「あと2行、でもこの意味がわからない」などです。この場合、「これさえなければ、すぐに終わるのに」と思っているかもしれません。純粋に「これはどういうことだろう」と、本を理解しようとしていません。本を5ページ読むという目的では、その感情は素直です。しかし、本の内容を知るという意味では、雑念になります。理解することから見ると、注意が散漫になっています。集中力がないと言えるかもしれません。

 ところで、人間の行動と意識の関係はどのようになっているのでしょうか。よく聞くのが、人間は2つの思考を同時にはできない、です。要は、1つの思考しかできない、のです。
 頭の黒いネズミカフェでの催し物の細かい段取りを電話で友達と話しながら、同時に、物理学の宿題をしていたとします。どちらも同じようにサクサクと捗(はかど)ることはないはずです。どちらか一方は、お留守になります。
 では、一輪車に乗りながら本を読むことと、どこが違うのでしょうか。一輪車に乗り慣れた人なら、できる気がします。それは、自転車に乗りながら、と置き換えることができます。自転車は無意識で乗っていて、意識を使っていません。ですから、本を読めるのでしょう。初めて自転車に乗る人が、乗りながら本を読めるでしょうか。自転車に意識が行くため、本に意識を向けられないはずです。
 意識を使う行動は、1つしかできないのです。そして、注目したいのは、無意識を使えば、2つ以上の行動(注:思考ではない)が可能になることです。

 このように見てくると、思考を伴う行動については、同時に意識するのは、多くても1つにした方がいいとなります。仮に、無意識にできることが多かった場合、意識することは少ないはずです。この場合、意識したことに集中できます。

 行動に制限をかけるような意識は、無意識よりも劣っているようなイメージを持つかもしれません。これは、意識と無意識を分けて考えているからです。現実には、それぞれの役割があり、一体となって私たちの行動を支えています。
 意識があるから、調べたり習ったりできます。それらの成果を無意識に持って行っています。特に、何らかの気づきの場合、意識がはじまりの起因となり、無意識と協力して、創造性を発揮しているかもしれません。

 意識を起こさない行動はあるのでしょうか。全てが無意識でなされる行動です。
 今から、20年くらい前にやっていたテレビ番組のドキュメンタリーがありました。剣道の世界一を決める大会で、それに出場するA選手を取り上げていました。対戦国には、世界一と評されるB選手がいました。そのB選手に勝たない限り、世界一はないと予想されていました。
 勝たなければならないという重圧、勝つことだけを考えてしまうことに、身体がうまく動かないのです。監督?からは、剣に迷いがあると言われます。A選手は精神的なことに気づき、初心に返ることを目指します。道場の雑巾(ぞうきん)がけをはじめました。無心になることを目指したのです。
 大将戦で世界一が決まる場面、長い戦いの末、A選手は見事に勝利しました。
 このような大会に出る選手ですから、剣道の技が無意識にでるはずです。しかしながら、重圧、結果を考えると、どのように勝つのかを考えてしまうようです。相手がこう来たら、ああ打ち返す、のような考えです。しかし、世界レベルの動きは、その瞬間に考えてできるスピードと技ではないはずです。
 無意識に動くものであれば、それを意識すると動きはぎこちなくなります。どのような技を使うかを考えない方が、より円滑な動きになります。無意識に任せればいいのです。
 勝とうと思わなければ、勝てません。しかし、勝つという意識を持つことで、動きにキレがなくなります。精彩を欠くという表現の方がいいかもしれません。
 今からこのことを思えば、無意識で技を放つだけでなく、心(感情や思い)までをも無意識で働かせていたように思います。意識の領域には、何もなかったはずです。A選手の雑巾(ぞうきん)がけは、心を、無意識に持っていくことと、意識に出てこないようにしたのです。
 これが、全てが無意識でなされる行動だと思います。これを、無我の境地、とか、無心、と言うのでしょうか。
 今さらながらですが、もう一つ感じたことがあります。観客からは、A選手が相手の動きに応じて反射的に身体を動かしているように見えるかもしれません。しかし、技を決めるという目的を果たすために、相手の動きに左右されることなく、A選手は自身の判断で身体を動かしているようです。もし、反射的に応ずるならフェイントに引っかかってしまうかもしれません。ここだと無意識が判断したから、A選手の動きには、主体性があったと言えます。主体性は意識的だと思ってしまいますが、この場合、主体性は無意識にあったように思われます。

 このように見てくると、意識と無意識は一体となって働いています。
 意識については、必要なものだけにするのがよさそうです。大切なのは質です。意識が次から次に起こるようでは、たとえ1つずつでも、効率が悪くなります。必要な意識が起こるように、無意識を作ることです。意識は気づき、無意識は幅広く精度の高いデータの質を向上させることでしょうか。
 最適な状態とは、意識と無意識が、相互に連係し合って働くことと言えそうです。漠然としていますが、人の活動は、身体を使うものから、頭を使うものまで様々です。意識と無意識のいずれも大切です。

更新記録など

2018年5月31日(木) : アップロード