考えるについて
№15『思考の技術・発想のヒント』、№16『「考える力」をつける本』、№17『脳トレ』、№18『東大物理学者が教える「考える力」の鍛え方』を読んだので、私なりにまとめてみたいと思います。
まとめ
- 創造は、人類の積み上げてきた、知識、智恵のうえに成り立っている。
- 「感情」は、「考える」を起動させたり高めたりする。
- 人はそれぞれに感じ方が違い、持っている知識、智恵は絶えず膨脹している。
- 知識、智恵を引き出すには、感情のコントロールが必要。
- 「考える」の向上には、集団による思考技術の確立が望まれる。
目次
はじめに
- 個人の持っているもの
- 感じたことの引き出し方
- グループで「考える」を高め合う
- 討議の進め方について
- 将来的展望
はじめに
この4冊の本が目指す目的はそれぞれに違っています。考え方の方法の創造、物事の見方、脳の活性の方法、独創・創造の摸索などです。共通するテーマは、どのように「考える」かです。そして、4冊の根底にある考え方は、
『創造は、人類の積み上げてきた、知識、智恵のうえに成り立っている』
ということです。「考える」をまとめるうえで、まず、このことを念頭に置きたいと思います。また、「考える」ことが効果を上げる唯一の方法ではありません。「考えない」ことが時として必要になることがあります。
読んだ本は、個人を対象に書いてありました。考えをまとめ熟成させるのは個人だからです。しかし、その個人の考えをどのように発展させるかについては、方法が違います。読書、音楽を聴く、指導などさまざまです。一人でできることもあれば、誰かの助けを必要とするものもありました。一人でするだけでなく、集団で考える力を高める方法はないものか、と私はふと思いました。ほとんどの場合、私たちは組織で仕事をしているからです。
「考える」をまとめるうえで、「感情」がキーワードになると思いました。
1 個人の持っているもの
個人の持っているものには、経験や知識、知恵など様々なものがあります。同じものを見ても人は、感じ方が違います。興味を持つ対象も違います。全く同じ人はいません。ということは、その人と話をすることで、自分とは違う何か新鮮なものを感じたり、何か新しく気づく可能性があるのです。
また、人間はいつも正確に動いているわけではありません。勘違いや間違い、感情の起伏のあるときがあります。この不正確さが、時には気持ちを和らげ、時には戦慄の事態を招くことがあります。これが、着想や発想の端緒となることがあります。創造まで発展すれば儲けものです。
人にはそれぞれ感情があり、表情や言葉を使い、コミュニケーションをとっています。
職場の研修で知的障害者施設を数日間、経験したことがあります。私が接したのは、小学校高学年から中学生くらいの子どもたちでした。彼らの知的障害の程度には個人差がありました。中には言葉が健常者と同じくらいに話せる子どももいるのですが、あまり動かない子どももいました。子どもたちの中に、頭に十円玉くらいの大きさのハゲを持った子どもがいました。話すのが上手で活発な子どもに、その子は意地悪をされているようでした。その子は言葉をほとんど話せません。「あー」とか「うー」くらいしか言えないのです。また、表情に変化は少なく、動きも遅いのです。このハゲの原因がストレスによるものだと私は思いました。意地悪をする子どもに抗議はできなくても、せめて、先生や友達に悔しい胸の内を伝えることができたら、どんなに気持ちが救われることかと私は思いました。言葉で自分の思いを伝えられないのです。言葉だけではなく、表情で気持ちに共感できれば・・・とも思いました。その子は、感情的に孤独なのです。
健常者においても、意思を疎通させる能力は個人差があります。また、育ってきた環境や価値観、立場の違いから、同じ言葉でも感じ方に温度差のあることがあります。この温度差を少なくできれば、お互いの感覚の理解につながります。そして、お互いが理解しようとする意志を持てば、新たな発展があるかもしれません。
私たちはどこかの組織にいます。たとえば会社員であれば、XX株式会社というような組織です。また、その会社員は、別の組織、たとえば、「GLD6」という名称で、毎週金曜日の仕事帰りの6時から始まる酒を飲む数人の集まりに参加しているかもしれません。同じ人が、いろいろな集団にいるのです。それぞれの場所には違う雰囲気や方向性があり、感じ方に変化があります。慣れてしまうと意識しませんが、本人が思う以上にいろいろな情報を得て、感じ方、考え方を持つようになります。
社員全員が、寝る時間以外はすべて会社で働いていたら、どうでしょうか。会社には社風があり、何年間は同じ人と顔を突き合わせながら仕事をしています。同じ環境に長くいると、すべてのことが「当たり前」になってしまいます。このことは仕事や職場の問題や向上させる点に気づきにくくさせています。結果として、生産性の向上を望めませんし、自社製品の評価の仕方も一義的なものになります。
この同じ環境での特徴は、感情と閉鎖です。働き手の感情の動きが少なくなります。意欲の減少というよりは、気持ちの切り替えができていません。閉鎖は、働き手の外部社会との交流が少ないことです。創造するどころか、生産効率が悪くなります。心配なことは、働き手の人としての生き方の質が悪くなることです。だらだら仕事をするより、ちゃっちゃっと仕事を終わらせて、違う世界で活動することが必要なのです。組織が働き手の質を悪くすると、組織も同じようになります。このように考えると、労働時間をより短くし、構成員が違う世界を経験するしくみを作る必要があります。
私たちが生産する理由の1つに、自らの生活の向上があります。洗濯機、冷蔵庫、クーラー、自動車など便利で、ゆとりの時間を持つようになりました。その時間を使って、友達と食事に行ったり、映画を見たり、遊園地に行ったりしています。これらは、人類が築き上げてきた知識と知恵から成り立ちできています。ですから、いろんなことを体験するのは、人類の知識と知恵に触れているのです。接触があるからこそ、創造ができるのです。限られた場所での生活は、創造の可能性のある接触の機会を失っていることになります。これは自分が全体の中でどのような生活状況なのかをわかりにくくしています。そのうえ、実際の全体の状況に触れていないと、便利さや不便さ、何らかのニーズを感じることすらできません。
2 感じたことの引き出し方
人類の知識や知恵を得る方法の1つに読書があります。1冊の本には著者の経験した知識や知恵が含まれており有用です。本の中には、論の展開の上手なものがありました。しかし、なぜか私は実感を持てないのです。経験する現実とは何かが違うのです。強調する部分を太字や書体を変えて表現したり、まとめを使って特にわかりやすくしていますが、何か物足りなさを感じます。その原因として、本には感情表現がないのと、情報の提供が一方通行になっていることがあります。
本の著者は、大学の先生、医者、研究者、その道の権威の方が多くいます。これら著者の本の内容は、その世界の標準といえるものかもしれません。知っていて損はありませんし、いつも注意しておく必要があります。そのうえで、独自のものを開発したり、自分たちの効率的な方法を作るときには、「所属する世界の人間の感情」と「著者の表した理論・技術」とのすり合わせが必要です。優れた理論や技術であっても、実際に使う人が感情的に満たされなければ、十分に機能しないからです。
一人が持っている情報や発想は少なくないと私は考えます。人はそれぞれに、いろいろな経験をして、いろいろに感じています。同じ人でも、本のように整合性のとれた人は少ないように思います。あるときはイエスでも、別の時はノーということがあるのです。人の話を聴くと、自分の考えが変わることなどです。また、年齢や上下関係などで様々に変化します。本が伝えられないことを、人との会話は実現してくれます。人から様々な思いや感じ方を引き出すことは、組織での仕事だけでなく、私生活においても役立ちます。
職場改善や問題解決の研修や会議などに参加して気になったことがあります。それは、参加者の持ち味を十分に出せていないことです。その原因は、感情によるものが多いように感じます。
参加者の自己評価。自己評価の高い人は発言を積極的にするようです。逆に低い人は、終始無言で採決の時だけ意思表示をするという感じです。この自己評価には、昇進の遅速、学歴、実績などが考えられます。大学卒業でも、日本を代表する大学もあれば、認知度の低い大学もあります。有名な大学に入るには、学校の勉強ができる必要があります。そして、私たちが「頭がいい」というのは、この勉強ができる序列によっています。入学するのに困難な大学の学生は頭がよく、そうでない大学生は序列によりそれなりに判断されるのです。小学校に入ったときから、この感覚を骨身にしみるくらい教え込まれるのです。試験のできるクラスメートの発言はわかりやすく説得力がありますが、それ以上にクラス全員の「この子は頭がいい」という威光がものをいうことがあります。子どもの時から染みついた感覚は、社会人になっても引き継がれているようです。
世の中は、日本を代表する大学に入学できる頭のいい人たちばかりではありません。むしろ、そのような人は少数です。それは、偏差値をみれば明らかです。世の中の動向を決めるのは、むしろ、大多数のはずです。世界でごく少数の頭のいい人たちにしかわからない理論を振りまいたところで、大多数の人は理解できないでしょう。
これ以外に、先輩後輩、上司部下、性差など、立場上のことが障害となっていることがあるようです。また、漢字の書き順の間違いを指摘したり、言葉尻を捉えて揚げ足を取ったり、言い間違いを追求する言動も同じような現象を招きます。そして、本来の議論すべきことから離れ、時間の無駄遣いで終わることがあるのです。
感じ方は、知的能力の高低にかかわらず、人それぞれ違います。この部分については、頭がいい悪いは関係ありません。ただ、感じることを整理し伝達することに慣れていないために、本人の思いを伝えられないことがあります。この場合、聞き手が一つ一つ丁寧にたずねると、よくわかることがあります。そして、話す人は、自分の思いが伝わると、自分から話をするようになることがあります。まれに、「この状況は、このように感じなければならない」と、他人の感じ方まで決めつける人がいます。この場合、構成員は何も話さなくなります。なぜなら、感じ方が決まっているなら、自分の意見を述べる必要がないからです。
人が話し合うことは、言葉とともに感情や表情をも含め、意思伝達が双方向になります。このことは、感じ方や考え方、価値観など自分と他人とは違うことがよくわかります。人の持っている情報の提示と次から次へと変わる論の展開があります。この場は、自分の考え方の現状を知るとともに、新たな技術の獲得の機会でもあります。この刺激が、問題解決や発想の種になります。何かのテーマでグループ討議をして、解決や結論は出なくても、構成員は何かを考えたはずです。話を聴くこと、話すことで、頭は動き出します。感じることは誰もが持っているので、誰もがこの討議に参加できます。
話を丁寧に聴いてもらうことの効果は、話し手が自分にそれなりの価値があることを自覚させてくれます。聞き手は、話を聴くことで、人に価値のあることがわかります。ここには感情の動きがあり、興味や好奇心をあおる作用があります。休憩時に、私的な趣味、世間話でもすれば、さらに、活性化することがあります。
3 グループで「考える」を高め合う
あるテーマに絞って提案を求めた場合、グループ間で激論が交わされることがあります。たとえば、グループでも個人でも構いませんが、A、Bが、それぞれの特長を主張するとともに、相手の弱点を指摘するということです。似たようなものに裁判があり、お互いの主張と相手の立証の不足を指摘して、裁判官に判決を求めるものです。ここで共通するのは、どちらかの主張に決められるということです。内容や真実は別にして、プレゼンテーションや法廷の技術で勝利をする場合があるのです。それでも勝った方の提案を採用するには、勝ったという絶対的な理由があります。提案についていえば、どちらの提案を採用したとしても、それなりに成果をあげることになるでしょう。
提案の場合、順位を決めることはありますが、採用するかどうかは別の話です。お互いが弱点を指摘し合う提案など怖くて採用できないからです。ここでもう少し、たとえばAとBの内容を発展させることはできないかと思うのです。それぞれの主張について、概念的、具体的に精査し、自社における特長を抽出します。「これだ!」というぶれないものが見つかったら、それを基に全く新しい企画案を考えてみるのです。自社の特長が生かせるなら、課題とは違うテーマでもいいのです。A×B→甲、といった感じでしょうか。AとBの主張に何らかの差があるから、このようなことが可能になります。主張が全く同じなら迷う必要はありません。
AとBの主張の差は何なのかを調べたり、考えたりすることは、頭を使います。会社でよく使う言葉があいまいに使われていたり、年齢により慣例行事の受け止め方に差があったりします。違う言葉を同じような意味に扱っている場合もあるでしょう。これらを区別したり、違いを調べることは、構成員のそれぞれの感覚が共有されているかどうかを知ることになります。この感覚が共有されていない状態でプレゼンテーションをしたとしても、同じ土俵で評価をすることはできません。そうなると、その感覚を同じにする必要があります。価値観を同じにするのとは違います。定義や方法について、意味や受ける感覚をお互いが知っておくということです。
仮の話として。初めの商品開発の方法のA、Bの提案が、当初の課題とは全く違う「組織の感覚の共有化プロジェクト」に変わったとします。先に述べたA×B→甲です。どのような方法でこれを成し遂げるのか議論があるでしょう。方向性を見失わないように目的や目標を明確にしておきます。そして、議論したり実行するうえで、「変わらないもの」、「変えられるもの」、「変わってゆくもの」を確認しながら計画を進めていく必要があります。変えられないものに時間と労力を注ぐのは、浪費になります。変わってゆくものに気づかないと世間から取り残されます。自分たちにできるのは「変えられるもの」だけです。このことについてはっきりと区別することは大切です。
4 討議の進め方について
年齢や世代により、教育内容や環境が違います。若いからこそ、年を取っているからこそ、それぞれに感じ方が違ってきます。
1つの職場を外部からみるのと中からでは、感じ方に違いがあります。2年も勤めるとその職場の雰囲気に慣れてきます。新人や転入者が入った会議で、「仕事のことは何もわからないから意見を聴かなくてよい」という人がいるそうです。仕事のことを聴けば時間の浪費に終わるかもしれません。彼らが自分たちの職場をどのようにみていたのか、私なら知りたいと思います。組織は複数のグループと力を合わせて仕事を進めています。仕事を効率よく進めるためにも、彼らの意見は大切なものです。チャンスはわずかな期間しかありません。
感じることは、老若男女を問わず平等に与えられています。「バカにはわかるまい」と言う人を見たことがあります。バカの基準が何かわかりませんが、この発言者は自分が賢いと思っているか、自分だけが理解していると思っているのでしょうか。そして、それは事実かもしれません。しかし、そんなに賢いなら、自分以外の人はすべてバカであることに気づかなければなりません。多くの人が勤める組織の仕事を一人でするわけには行きません。バカにわからないことをわかるように説明し、職務が完遂(かんすい)できるように道を示し、組織の仕事を進めることに力を注ぐべきです。
別の見方をすると、バカの一言で片付けることは、自分の世界しか認めないことです。これは、他の人が感じたことの中の、共鳴できないまでも何か新しいものを見逃している可能性があります。バカな人から何か新しいものを引き出せていないとも言えるのです。人材の活用をしていないことになります。おそらく、どんな人であっても、その人が経験して得たことや感じたり思ったりすることをすべて引き出すことは不可能です。また、賢い人とバカの差が何であるのか、その差を埋めるにはどうしたらいいのか議論するのもいいかもしれません。その前に一騒動あるかもしれませんが、感情の動きとしては激しいものが期待できます。結果として、何らかの変革も期待できます。
人の感情の中には、現実とは違う想像をしていることがあります。感覚的な思い込みです。
職場での階級が上位になるにつれ、その人が感情まで優れていると思うことです。しかし、感情は誰でもありますし、優劣をつけるものかどうか疑問です。職位によって、権限、職務内容が違うだけで、人間性には関係がありません。
たとえば、課員が、課長や部長を人間的にも偉いと思うことです。確かに、誰に対しても丁寧に接し、おごり高ぶることなく、人として立派な方もいます。しかし、組織の目的と人間性の追求は、相反することの方が多いのです。嫌がる仕事をさせたり、個人の事情にかかわりなく配置転換をすることなどです。組織の目的を押しつけるわけですから、一つ一つその人の立場になって采配(さいはい)をしたのでは、上司の心身はもちません。ですから、上司に人間性を求めるのは、自ら苦汁をなめるようなものです。
「考える」を中心に討議をする場合、参加者は平等でなければなりません。同じ立場で話し合います。参加者は、発言者の発表を遮ってはいけません。聴いていてわからないことがあれば質問します。聴いた後に、相手の発表の仕方や結果に、指図や批判をしてはいけません。誰もが自由に自分の考えを述べられるように討議を進めていきます。まかり間違っても、人間関係に感情のしこりを残さないことです。次回の討議も何か話してみたいと参加者が思うようになれば理想です。
重要な役割を果たすのが司会者です。討議を発展するように進めること、話の流れを止めないこと、人間関係に感情のしこりを残さないことなど力量が求められます。ファシリテーター(facilitator)のような司会者が求められます。誰の意見にも迎合することなく、グループの構成員から積極的な発言を引き出し、与えられた課題の結論を導き出すことです。
討議する構成員があることを共有すれば、司会者の負担を減らし、力量を求めすぎることはありません。お互いが、話を理解しようと努めること、課題の結論を全員で出そうとすることです。これはルールではありません。ルールで方向性を決めるのには限界があります。共通の目的に向かう同じ方向性の感情というようなものです。団体スポーツ競技で、チーム構成員が、自分の持てるもの出し、チームメートの持っているものを引き出し、勝利に向け力を合わせるといった感じでしょうか。失策を非難したり、技術を批判している時間はありません。次に自分たちができることをすぐに実行していくしかないのです。討議では、次から次へと話を進めていく必要があります。
好奇心や興味を起こしてくれる感情は、すべての人に平等にあります。感情を刺激して「考える」動作をするには、「人としてどうあるべきか、どのように振る舞うべきか」を構成員が意識することを共有する必要があります。これをすることより、ルールに縛られることはなくなります。
「考える」ことを作動させるには、グループによる討議が有効です。意見を理解したり、自分の思うところを述べたりするからです。討議はたえず進んで行くので、人や自分の考えの動向に注意することになります。好奇心や興味などが活性すれば、「考える」ことも同じようになります。個人だけでなく、組織の「考える」ことを向上させることにもなると私は考えます。
以上の状態を達成して、三人寄れば文殊の知恵、となるのでしょう。
5 将来的展望
「教える」とよく言いますが、私は最近違和感を覚えます。人がそれぞれに違うのは、生まれたときからです。性格も能力も違うのです。赤ちゃんといえども、一個の人格を持っているのです。その個性、持てるものはこの世で1つだけです。素晴らしい可能性を提示してくれるかもしれません。
世の中には多くの情報があり、そのすべてを知ることは不可能です。人は興味や好奇心のあることは、かなりの吸収力を発揮することができます。興味のあることはよく知っていますが、他のことは詳しくはわかりません。
私は、「教える」の言葉に、上位のものが下位のものに言うイメージを持っています。教えるとその人も教わることがあるといいます。お互いに何かを得たということです。そして、どちらとも、その世界を発展させる可能性を持っています。教える側、教わる側は、ともに同じ方向に向かっている同志なのです。このことから、「教える」のではなく、「伝える」の方が、実質的な表現になっていると私は思うのです。「教育」ではなく「共育」なのです。同志ですから何かを向上させようとしているはずです。よく話し合わなければ伝わりませんし、新たな発想も生まれません。
感情は大切です。意欲的にするのと、絶望的にするのとでは、過程も結果も違ってきます。また、対立の感情は、様々な障害を起こします。どのようにすれば、好ましい感情を引き起こすことができるのでしょうか。集団での考えを十分なものにするには、この感情について人は進化する必要があります。権力や名誉などの欲を乗り越える必要もあります。理想は言えても、実現は困難です。しかしながら、これらのことに少しでも近づけるような技術が開発されたなら、新しい発想の可能性が出てきます。
私が学校で受けた教育は、内容は変ったかもしれませんが、今も構造的に変わっていません。勉強のできる人を選抜し、お金をかけて高等教育を施すという方法です。
昔に比べて今は、情報を得られやすく、いろいろな分野に質の高い人材が日本にはいます。このことを考えると、個人の意欲と資質に合わせた制度が適しています。意欲のある方が、吸収力が高いからです。また、人材がいれば、内容を伝えることができます。
この制度ですべきことは、違う分野の人が集まった場合に、情報を伝え合う能力を高めることです。自分の分野であっても、他の分野のことが必要になることがあります。これを速やかに十分に行えるようにするのです。また、このことは新たな発想を生む可能性を高めます。この場合、毎日同じ学校に行くということはなくなるでしょう。あるときは、大学の先生のところ、会社のエキスパートのところといったように。
創造や開発などで産出されたものは、やがて価格競争に巻き込まれます。しかし、創造や開発に導く技術は、盗みにくいものです。グループにより対応が違うことと、人材の育成、開発グループの素地を作るのに時間とコストがかかるからです。また、必ず創造や開発ができるという保証もありません。
創造は、人類の積み上げてきた、知識、智恵のうえに成り立っています。これは現在進行形です。グループの構成員の出し合った知識、智恵により、創造がなされるのです。
以下余白
更新記録など
2014年6月12日(木):アップロード
2016年1月15日(金) : レスポンシブ様式に改装