霊性について
最初に簡単なまとめを書きます。これは、無駄な時間を無くすためです。人により霊性についての考え方、感じ方は違います。読みたいと思う方のみ、以下をご覧ください。
まとめ
- 霊性は、神、仏、霊だけでなく、魂も含まれる。
- 霊性の世界は、現実の世界に同じようにある。
- 魂は生きる方向にあり、性格がある。
- 人は、心身と魂で成り立っている。
- 言動によっては、魂は強くなったり弱くなったりする。
- 調和のとれた状態とは、心身と魂が同じ方向に働くこと。
- 魂を意識することで、充実感を持つことができる。
以上が、ここで取り上げた内容です。興味のある方は、お読みください。
霊性(れいせい)、スピリチュアリティー(spirituality)とは何かという話です。
辞書には、宗教的な、精神上の目に見えないもの、というような意味の記載があります。しかし、ここでは、人間の作為や、頭で考えたり、創造や想像などではありません。人が、何かを見たり、場所が変わったときに、今までとは違う何かを感じることについて取り扱います。
例えば、清水(しみず)がわき出る場所、岩、木などからパワーをもらったりすることです。それらのある場所に行ったり、触れたりすることで、生命力や運気が強くなると言われます。科学から見て、これらの場所や物が、人にこれらのパワーを与えることを分析、証明できていません。超常や神秘現象を研究する大学もあるそうですが、解明したというニュースを聞いたことがありません。科学の分析機器や思考方法では対応できないのかもしれません。科学を主としても、何か違うアプローチの方法が必要なようです。
それにしても、人間が感じる神秘にはいろいろあります。神、仏、霊などです。これらが現実に存在するのかどうか、いまだに決着していないようです。東北の座敷わらしを見た者は幸運に恵まれるといいます。フランスのルルドの泉では、聖母マリアさまの出現や、病気の奇跡の治癒が起こったりしています。そして、これらの神秘の現象を経験できる人は限られています。
私たちは、目に見えるものは現実にあるものだとして信じます。さらに、経験すると確信に変わります。目で捕らえられないものは、信じない傾向にあります。神秘や奇跡を見たり、経験した人は信じますが、そうでない人はその出来事に疑いを持ちます。
さて、私たちの感覚で、確認したいことがあります。私たちが物事をどのように見ているのかということです。
「本人しか知らない自分のこと」、「本人も他人も知っている自分のこと」、「他人しか知らない自分のこと」、「誰も知らない自分のこと」、があります。これは、自分を見たときに、本人と他者の関係で言われることです。
【図1】
ここで注目したいのは、「他人しか知らない自分のこと」と「誰も知らない自分のこと」です。他人から見る自分は本人から見えないため、それを知るには、他人に聞くしかありません。それでも、まだ、知る手立てがあります。しかし、「誰も知らない自分のこと」は、本人を含めて、誰に聞いてもわかりません。
今までに経験したことのない病気で人が亡くなった場合、神の怒りに触れたとか、神の思し召しとか言って、病気を恐れてきました。そのうち、それがウイルスによるものだとわかると、それに対する予防や治療、薬が開発されてきました。そして、はやり病(やまい)にはウイルスや菌などが関係しているとわかってから、神の存在は小さくなりました。電子顕微鏡などでこれらを見られるようになってから、私たちの感覚は変わってきました。
しかし、同じウイルスや菌に接したとしても、発病する人とそうでない人がいます。生まれつき遺伝子がそのようになっていることに関係しているとも言われます。ここでの疑問は、「同じ環境にいながら、なぜ、罹(かか)る人と、罹(かか)らない人がいるのか」ということです。同じ身体を持ちながら、同じようにならないのか、です。統計上の問題なのか、それに関連した偶然についての考え方なのでしょうか。
先ほどの、他者との関係における自分をこの世に置き換えてみます。「誰も知らない自分のこと」について直観で、私たちが見たことも聞いたこともないものがあることがわかります。そして、誰にもわからないし気づかないし、目にも見えないが、何かが「ある」ことが、理屈として何となくわかります。その中に、神、仏、霊などがあると考えても不自然ではありません。
【図2】
私たちは、運命を感じることがあります。「どうして、この人を好きなのだろうか」とか、「なぜ、好成績を収めることができたのか」などです。「どうして」「なぜ」をいくら考えても、この結果にたどり着いた原因や理由を推測できても、それが本当に正しいかどうかを知ることはできません。人間が作った試験のように、答えがないからです。この世にある現象の全てを理屈では解明できないようです。なぜなら、成功したことを、まったく同じように実行して、まったく同じ成功を導くことができないからです。
ですから、失敗の場合も同じで、ある程度のことはつかめたとしても、決定的な原因や理由がわかることは少ないかもしれません。そして、そのことが、本当に失敗だったのかも疑問に思えることがあります。失敗したからこそ得たものがあり、将来、成果を得られることもあるからです。
私たちは目に見えるものを「ある」と信じ、そうでないものに疑念を持ちます。先ほどの本人と他者との関係で、「誰も知らない自分」がありました。人は自分も他人も含めて、知らない本人があることになります。あの人といると、不思議に気持ちが落ち着くとか、一緒に仕事をすると何工程もある作業が楽しいままにすぐに終わってしまうとか、といったことです。目には見えませんが、何かを感じています。「馬が合う」「気が合う」といったところでしょうか。なぜ、そうなるのか説明できません。これは、「誰も知らない私たち」で、個人についても、他人との関わり合いについても、感じることです。
さて、幸運があったときに「神のお導き」とか「神の恵み」とかいいます。この言葉と、先ほどの「馬が合う」とは、どこか似ています。どちらも、説明ができません。「神のお導き」は、私たちが知らない自然だと言えそうです。そして、「馬が合う」とは、人が感じるものですが、大きな目で見ると、自然の中の出来事です。人は、人間の言動については自然とは切り離して考えがちです。しかし、人も、自然(または、宇宙)の中に含まれています。
神を信じる人たちの中には、感覚として「神はある」と言う人がいます。先ほどの、自分と他者の関係における「誰も知らない私たち」と同じように、神は「誰も知らない自然(または宇宙や、あの世やこの世)」のように感じます。
この神や、目に見えない世界にある何か、を感じることを霊性と呼んでいるようです。
「誰も知らない私たち」とは、同じ自然(または、宇宙や、あの世やこの世)」にあるようです。
霊性の対象は、アニミズムやアニマティズム、神、仏、霊などがよく言われます。しかし、「誰も知らない私たち」があるということは、私たちも霊性の1つだということです。そして、それは自然なことです。
私たちは、目に見える姿や身なり、頭で考えたり納得したものを判断して人と接しています。しかし、その表面的なもの、相手を特定したり、相手の思いを推測する以外に、接している人に、何かを感じています。勢いがあるとか、希望があるとか、です。そして、これを思わせるのは何かと考えると、「魂(たましい)」「スピリット(spirit)」です。魂を見ることはできませんが、感覚では何となくわかるような気がすることもあります。神仏も人の魂も、誰も見られない同じ「誰も知らない自然(または宇宙や、あの世この世)」に「ある」のです。見える肉体を持ちながら、一方で、見えない魂を人はもっています。
人を見るときに、「目に見える自然」と「目に見えない自然」を混同することがあります。「あいつの根性はひん曲がっている」というような言い方をするときです。これは、違うことをしたり、反対のことをして、私たちの期待を裏切る時によく聞く言葉です。しかし、その行動が、私たちにとってよい結果を出したとき、複雑な気持ちになります。結果には賞讃したいが、その行動に賛同できないからです。なぜなら、私たちが力を合わせて生きていこうとする行動や慣習にそわないからです。
さて、魂とは何でしょうか。
話は変わりますが、私は生物の進化に疑問を持っていることがあります。自然に適応するために、子孫を残すために、生物は進化してきたとよく聞きます。なぜ、同じ動物が同じように、進化するのかということです。数十頭いる生き物の中に、1匹だけ環境に適応するように身体が変化したとします。その1匹を中心に生殖して、何代目で全ての生き物が同じような身体になるのかです。突然変異により、環境に強烈に適合する生き物が生まれた場合はどうなのでしょうか。生殖が繰り返される間にも、環境へ適合するための身体の変化も考えられます。ここには、生殖が可能かどうかと、ある生き物が絶滅しない最小存続可能個体数の問題があると思います。生き物が子孫を残すためには、ある程度の数が必要だと言うことです。
中国の思想に荘子(そうし、そうじ)があります。その中に、孔子と盗賊の盗跖(とうせき)の問答があります。盗跖は、国を奪い、天下を牛耳った君主が人民から搾取するのと、泥棒を働く自分とでは、盗むことにおいては同じだ、と主張します。盗跖には、九千人の部下がいます。
なぜ、九千人もの部下が集まったのでしょうか。人のものを盗むことを、盗まれる立場に身を置いたなら、いいことでないことはわかるはずです。そこには、社会の制度や慣習が、人間の本来のあり方に無理強いしていることがあります。
私たちは社会制度や慣習の中で生きています。会社に行けば、そこのルールがあります。私たちが本来あるべき姿とは別に、ある制度や慣習が取り入れられている傾向があります。
たいていの生き物は、群れて生きています。自分たちが生きたり、子孫を残すために何かをしていると考えられるのです。庶民には庶民の、盗賊には盗賊のそれがあるのです。それは、確かに教えられたものや経験による影響もありますが、これらの原動力になるのは「魂」のようです。何かわからないけれど、私たちを動かすものです。そして、魂にも個性があり、共鳴し支え合うもの同士が自然に群れを作るようです。当然、反発し合うものも、反応をしないものも、あるでしょう。いろいろな魂があることで、群れは様々な状況を生き抜くことができます。あらゆる環境や状況に、種を残す可能性を高めるということです。魂は生きる方向に私たちを向けてくれます。共鳴する魂は群れを作り、さらに子孫を繁栄させようとします。また、反発する魂は、滅ぼすことで自らの繁栄を図っています。心身で考えたこととは別に、魂は、個でも、集合しても、離反しても、繁栄するように振る舞います。ですから、政治で天下を取っても、泥棒で生計を立てても、それは心身のなせる業です。どの所業に於いても、魂は繁栄をさせる方向に動くことに変わりありません。
遺伝子(または、DNA)を残すために生き物はいる、という研究者もいるようです。魂は遺伝子の一部なのでしょうか。もし、魂が物質で遺伝子の一部だとしたら、私たちが死んでしまうと魂は消えることになります。しかし、人には、死者に対する思いがあります。親子でなくても、残された人々は何かを感じます。死んだその人の、物質としての遺伝子は無くなってしまいます。ところが、その人と関わりのあった人たちは、何かを感じています。その感じるものは、残された人の遺伝子に刻み込まれ、受け継がれていくように感じます。
この感じさせるものが「魂」のようです。生き物は、魂を共鳴や反発させながら、接することにより、生きてきたと言えそうです。
これは、人間に限らないようです。カラスは、仲間の死体には近づかないそうです。犬の母親は、我が子が死んだ際、しばらく寄り添っているそうです。ニホンザルの母親は、死んだ子がミイラになっても、自分の身から手放しません。
魂は、人だけでなく、あらゆる生物に共通してあるようです。
では、生き物以外の物は、魂をもっているのでしょうか。
ほとんどの人は、魂はない、と感じるし、そう言うでしょう。しかし、亡くなった人が生前に愛用していた時計を見た親族は、その時計に何を感じるでしょうか。懐かしさや、故人への思いが、わき出てくるかもしれません。
最近見たテレビ番組で子どもに実験をしていました。いつも使っている人形を機械に入れて、同じ人形を作ると子どもたちに言います。予め用意していた新品の人形とともに、いつも使っている人形が同時に機械から出てきます。子どもたちには、今までのものでも新しい人形でも、どれか1つ取るように話しておきます。子どもたちが取った人形は、いつも使っている人形だったそうです。大人なら、新品の方が新しくていいという、ある価値観で選ぶ場合がありそうです。しかし、子どもたちは、いつも使っている人形を選んだのです。人形との絆を大切にした選択と言えるかもしれません。そして、この選択は、魂の働きと言えるかもしれません。
他人から見れば、ごくありふれた物でも、関係者にとっては特別な意味を持ちます。その意味は理屈や言葉では説明できません。人として同じ立場に身を置いて、感じ取らなければわからないものです。また、関係者でないとしても、そのような話を聞くと、今まで単なる物と感じていたものに、特別な感情のようなものを感じることがあります。
物に魂があるかどうかはわかりません。しかし、少なくとも、様々な状況を経てきた物に、私たちが魂を見ることはあるようです。人の思いが、反射的に物に魂を見る、ということでしょうか。
そして、これは形見にかかわらず、私たちが日頃使っている物についても、同じことが言えそうです。それは、物としての価値ではなく、命を繋ぐ思いの価値と言ったところでしょうか。これを感じることは、先祖から自分たち、そして、子孫へ命を繋ごうとする自覚を私たちに思い起こさせているようです。
ところで、どうして私がこのような霊性について取り上げたのか、その理由について、お話ししたいと思います。
弊サイトで取り上げた本に『生きがいについて』神谷美恵子氏著があります。生きがいが生きる力を持つことになるのです。しかし、生きがいを見つける前は、人は、生きる気力を失い、何ものにも希望を見いだせないことがあります。なぜなら、自分に生きる価値を感じていないからです。
著者は、自然の中に身を置いたときに、自分の存在に気づくことがあると考えていたようです。人は、どのような状況にあっても「ある」ことを否定できない、ということです。試験の成績がよかろうが悪かろうが、大金持ちであろうがなかろうが、健康であろうが病気であろうが、障害を抱えていようが、寝たきりになろうが、人が「ある」ことは事実なのです。これは私たちが生きている世の中だけの話ではありません。「誰も知らない自然(または宇宙や、あの世この世)」では、「ある」ことが事実なのです。先ほどの、命を繋ぐための話ですが、他の人たちの魂がある以上、その人が死んでも、魂は受け継がれていくことでしょう。一度、魂を得たものは、自然の中ではあり続けます。それは、心身は滅んでも、魂はあり続ける、ということです。
この「ある」という感覚は、私には、人の霊性であると感じられるのです。理屈や言葉では説明できません。自分で感じ取るしかありません。その「ある」という感覚は、自然の中でも、オフィスにいても、自宅にいても、どこにいても感じるものです。この「ある」が霊性では、と感じたので、このテーマを取り上げました。
「生きる価値」は脳や身体が考えたもので、「ある」は誰もが認めざるを得ない現実です。この違いを確認しておきます。「自らの価値」と「ある」ことを混同する人がいるはずです。「価値があるから『ある』」と思うのです。価値は心身が決めたことで人により変わります。しかし、「ある」は誰もが認めざるを得ない事実です。言い方を換えると、誰も「ある」を否定できません。それは、神、仏、霊であっても同じです。
書籍『生きがいについて』は霊性を取り上げてはいません。私が勝手にそう感じているだけです。取り上げた本に『日本的霊性』鈴木大拙氏著があります。これらの本から、霊性を考えてみます。
『日本的霊性』は、著者の修行体験から霊性を見ています。霊性のある世界と、私たちの感じる世界をそれぞれ別々に見て語っているようです。
『生きがいについて』は、霊性のある世界に私たちが「ある」ことを認め、私たちの感じる世界をつなげるものが「生きがい」と語っているように感じます。
【図3-1】
【図3-2】
『日本的霊性』と『生きがいについて』から、霊性のある世界と、私たちの感じる世界は繋がっていると感じます。
では、何が2つの世界をつなげるのでしょうか。それは「魂」です。
魂は、霊性のある世界から私たちの感じる世界に、またがってあります。
これらから魂を見ると、「現実の世界」と「霊性の対象の世界」にまたがってあります。この2つの世界は、自然界の一部です。ということは、2つの世界にだけ魂があるのではありません。自然界に、魂があるのです。
言い方を換えると、「現実の世界」と「霊性の対象の世界」は、同じ自然の中にあります。人間が、見える見えないで区別しているだけです。国境と同じで、地図には境界線がありますが、宇宙から見た地球にはそれはありません。
【図4-1】
【図4-2】
では、魂はいつまで自然界にあるのでしょうか。魂の寿命です。
ある人は、亡くなった人を思う人が亡くなった時と言います。しかし、それは心身であり、魂ではないように感じます。
たいていの人は蛇を見ると、嫌になります。太古の昔にヒトのご先祖さんが蛇に食べられていたからだ、という学者がいます。仲間を食べられたことを遺伝子に組み込んで、伝言しなくても身を守るようにしたという考えです。
なぜ、遺伝子にこの情報が組み込まれたのでしょうか。仲間の死が、生き残った者と、魂のやり取りをしているように感じます。魂は生きる方向にあるとするなら、残った者は、子孫を蛇に食べられないようにしなくてはなりません。この情報を伝達するのが魂の働きに思えます。
それゆえ、魂を特定できなくても、どの魂も影響力は違っても、自然界にあると思えるのです。そして、それは、太古の昔、ヒトのご先祖さんを食べた蛇にも言えます。蛇にもヒトの魂の影響はあるはずです。ですから、ヒトが滅亡したとしても、魂は残るように思います。
もしかすると、宇宙が消滅しない限り、魂はなくならないのかもしれません。魂の寿命はよくわかりませんが、現時点で、私はこのように考えています。
次に、人の存在を考えます。
人は、魂を持つとともに、身体をもっています。身体を失うと、現実の世界では見ることはできません。霊性の対象の世界に魂が残ることになります。この魂は、現実の世界にいる人々の中に刻み込まれます。生きているものに、何らかの影響を与えています。
【図5-1】
【図5-2】
人の魂はどのようにあるのでしょうか。現実の世界しか見えないと、人はものであるため、自分の存在を価値や思想で判断することになります。しかし、魂にそのような価値や思想はありません。
【図6-1】
魂が現実の世界と霊性の対象の世界にまたがるのであれば、現実の世界で感じられる魂で、心身を調整できるかもしれません。魂が強く大きい場合は、自分を失うことはないかもしれません。
目で見たり、理屈でわかる現実の世界で、思考や感情を動かすことは、何らかの価値や思想に傾きます。ですから、魂の向かう方向と、現実の世界で扱う方向が食い違った場合、魂と現実の間にスキマやねじれ、ズレを生じるようです。それは、メンタルヘルスを崩したり、力を出し切れない状態なのかもしれません。
【図6-2】
【図6-3】
現実の世界や霊性の対象の世界に、一体として魂を感じない場合、身体と魂は別々に存在しているかのようです。すなわち、データや思考、契約など、形のあるものに頼って生きることになります。相手はものと同じなので、魂を必要とは考えないのです。このように霊性を感じない人は、魂を弱めているかもしれません。
【図6-4】
魂は、命あるものが生きる方向に向かわせる原動力です。魂がしっかりしていないと、心身を積極的に動かせないばかりか、暴走する思考や感情をコントロールできません。思考や感情を主にすると、死滅する方向に向かうことも考えられます。種の存続をする働きをする魂を主にすれば、その方向で思考や感情が働くということです。
「気」とよく聞きます。「気を吐く」という言葉があります。気とは、生命を維持するものかもしれません。それは、魂から身体を通して出てくるものかもしれません。「気を配る」という言葉も魂から来ているように感じます。自分が生きようとするのか、関わりのある人を生かそうとするのか、です。いずれにせよ、私たちが生きようとする方向に変わりはありません。
【図6-5】
では、複数の人ではどのようになっているのでしょうか。
現実の世界に身体を持った人がいます。同時に、霊性の対象の世界にもそれらの人の魂があります。
魂には、個性があると言いました。魂にも、生きる場所があり、生きるものがあり、生きる方向があるのです。
この世では、経済価値、規則、慣習など、人の頭で考えたもので、人と心までをも拘束しています。これらが、魂を強くするなら問題ありません。しかし、頭で考えたものに合わなかった場合、心身が魂を弱めます。逆に、合った場合、魂は強くなることでしょう。
これは、人と人の間についても言えます。共鳴し、支え合うのなら、お互いの魂は、強くなるでしょう。逆なら、お互いの魂は、傷つき、弱っていくことでしょう。
では、魂は、どのように魂を見るのでしょうか。
昔はよく人を見て、その人を信頼するかどうか言っていたように思います。言霊という言葉があるように、私たちの感じる世界でも、人の言動から、魂の動きを知ることができます。人の魂が、霊性のある世界と、私たちの感じる世界が繋がっているから、立ち居振る舞いや態度、考え方、言葉などに魂の特徴が現れるようです。
ですから、私たちが感じる世界で、言動から感じる魂がダメだと感じたら、その人とはかかわらない方がいいかもしれません。生きる方向の違う魂だからです。
共鳴し合う魂の持ち主かどうかを知るには、魂を感じることが必要です。そのためには、自分の魂が、霊性の対象の世界にあることを自覚することです。霊性の対象の世界を感じられるかどうかです。この世界を感じることができれば、人の魂を感じることができるはずです。
修行者は、霊性の対象の世界を感じることができるでしょう。それは、彼らのように激しく厳しい修行をしなくても、霊性の対象の世界を感じることができるはずです。
私たちが自然の中に「ある」を感じることです。他の人、動物、もの、そして、この場所です。その関係は、理屈ではなく、自然なのです。
もっともよく使われている方法は、神仏を信仰し、それらを感じることでしょうか。神仏の信仰は、「現実の世界」と「霊性の対象の世界」の橋渡しをしてくれます。神仏があると感じることは、神仏のいる「霊性の対象の世界」に私たちがいることを感じさせてくれるはずです。『日本的霊性』では、自分が仏か、仏が自分か、というような言葉があったと思います。これを感じるのが、「霊性の対象の世界」です。それを感じることは、そこに自分の魂を感じることになります。自分の魂が「ある」ことを知るのです。
自分の魂が「ある」ことがわかれば、魂を養い、磨くことができます。
自分の魂があることがわかれば、自分以外のものにも魂があることがわかるはずです。他人の魂をみることができるはずです。
長くなったので、ここまでのことを簡単にまとめておきます。
私たちは魂を持っています。それは、神仏霊などと同じ自然にあります。しかも、魂とともに身体も同じ自然にあります。
私たちは目に見える心身から自分の価値を決めています。その価値を決めるのは、心身であり魂ではありません。魂は生きようとする方向に働きます。職業、性格など人によって違いますが、魂の働きは同じです。しかし、魂にも個性があり、協力、反発などをするものがあります。
魂は自然にあり、それは現実であり事実です。魂を感じることは、心身のあることが当たり前だということを自覚させてくれます。この「ある」ことは、制度や許可、価値観などにより「ある」のではありません。あらゆることから見て感じて「ある」のです。それが絶対的かどうかはわかりませんが、「ある」ことは事実で、それをどうにかすることはできません。
では、私たちが充実した生き方をするにはどのようにしたらよいでしょうか。
【図7】
個人について。
まず、自分の魂が、心身とともに自然にあることを感じることが必要です。
その方法として、1人で自然の中に身を置くことがあります。ありとあらゆる生き物や物がある自然を感じ、その中に自分が「ある」ことを自覚することです。自分が自然の一部あり、それが普通だと感じることです。自分があって当たり前だという感覚です。その「ある」は、大きくもなく小さくもなく、強くもなく弱くもない、ただ「ある」だけです。しかし、魂の「ある」を強く感じるにつれ、生きる力や方向性などを活用できるようになるようです。
魂は心身とともにあります。魂と心身の方向性が同じであれば、効率よく自分を動かせます。魂と心身の方向が逆方向だと、自滅的状況と言えます。
魂は生きる方向にあります。魂の性質や個性に協調させて、心身を生きる方向に使うことで、調和がとれます。ですから、深酒、過労などは、過ぎたるは及ばざるが如しで、よくありません。そして、他人や自分の生きる方向を邪魔する言動も同じです。魂は永遠である可能性はありますが、心身には限界があります。
【図8-1】
人が寄り集まった場合はどうでしょうか。集団の場合です。
この場合も、ヒトの魂の生きる方向に動かす方がいいようです。いくつかの集団が、お互いに安全得られ、他の集団に恐怖を与えないのであれば、集団は栄えることでしょう。
他の集団を攻撃し、降伏したにもかかわらず、殲滅(せんめつ)した場合はどうでしょうか。殲滅された集団のみならず、それを見ていた他の集団は、その言動を嫌に思うはずです。攻撃した集団の構成員も同様に感じるはずです。人の道に外れる言動は、集団の生きる力を弱めることになります。
【図8-2】
私たちが、ある時は、人を恐れたり、信頼したりします。それは、殺したり、騙したり、陥れたり、笑ったり、約束を守ったり、力を合わせたりなど、私たちがするからです。魂は、それらを感じ取って、人を生きる方向に動かしています。自然現象や動物からの危害だけでなく、人に対しても同様に振る舞っています。
例(たと)えば、私たちは、人を見る時、風貌(ふうぼう)や言動、周囲の評判などを参考にします。そして、ある程度信頼できると思ったら、徐々に付き合いをしていきます。しかし、これらは心身が判断したことです。自分に照らし合わせて、正確に相手を評価したとは言えません。また、相手の装いに見間違えることもあります。
この点から、それらに加えて、魂を見ればいいのでは、と思います。相手の心身と言動、それに、魂を見ることです。人は、魂と心身で成り立っているからです。言動が人の道に外れず、自分の魂と方向性が同じなら、付き合い始めてもいいかもしれません。魂が協調し合うようなら、自然と付き合うことになるでしょう。
そして、うまくいかないと思ったら、自分のいる場所を変えるのが最も手っ取り早い方法です。住む場所、職場などです。関わり合う人が変わるので、触れあう魂が変わります。それと同時に、魂に対する態度を変えるとなお違った生き方になるはずです。場所を変えるのは、占いなどではよく言われることのようです。
最後に。
以上、実感のないことを延々と述べてきました。しかし、自分の魂と、他人の魂を感じられるかというと、私には自信がありません。そして、今までもそうですが、これからも人間関係には苦労すると思います。
ただ、ヒトが霊性を持っているのは事実です。そして、霊性を対象とする世界もあります。しかも、私たちがいる世界に同じようにあるのは間違いありません。目に見えるものではなく、感じ取るしかありません。
そして、時間の経過とともに、霊性についての感じ方が変わることも十分考えられます。
【2016年12月9日(金)追記1始め】
自然(または、宇宙)において、人は孤独ではない、という言葉を聞いたことがあります。人は集団で寄り添って生きています。孤独には耐えられない生き物です。
ところが、修行者は、1人で何日も修行します。普通の人では考えられないことです。どうして、それができるのでしょうか。
人が淋しいと思うのは、心身がそのように感じています。現実に人がいて、顔を見られ、話ができることを当たり前と感じています。ところが、誰も見えなくなったら孤独だと思います。しかし、家の中に家族がいて、自分の部屋に1人いる時は孤独だとは思いません。この場合でも、心が通っていなかったら、孤独だと感じるかもしれませんが。
私たちの感じる孤独は、心身の感じる考えたものです。ここで述べてきた魂は、目には見えません。現実に存在しないように思えます。
確実に魂が存在するとしたらどうでしょうか。目には見えませんが、自分の魂が他の魂を感じられるとしたらです。自らの中に何かの魂を、周囲の何ものかに魂を感じられることです。そうなれば、魂の働きにおいて、孤独ではなくなります。多くの魂と、一緒にいる感覚になるはずです。
「自然において、人は孤独ではない」とは、霊性の対象の世界のことでしょう。しかしながら、魂を感じることは、心身と協調させることで、より生命力を発揮できる、と言えそうです。
【2016年12月9日(金)追記1終わり】
以下余白
更新記録など
2016年12月7日(水):アップロード
2016年12月9日(金):追記1を追加