『白夜(びゃくや)』
「まだ、来ないの?」
「ん~。どうも、翔(しょう)ちゃんの準備が遅れてるみたいなんだ」
「今度は、渋滞かぁ」
光輝(こうき)がスマホのメールを確認した。
「約束から2時間は過ぎてるわ。もう、お昼よ」
「この調子だと、今日は中止かな。3時間はかかるもんな。着いたら、夕方だよ」
その時、やっと到着のメールが来た。
「じゃ、お母さん、行ってくるよ」
「お昼はどうするの?」
「どこかで食べていくと思う」
「そう、気をつけて行くのよ。何かあったら連絡ちょうだい。いいわね」
「わかってるよ。行ってきます」
光輝(こうき)はリュックを背負って玄関を飛び出した。待ち合わせは、近くにあるコンビニの駐車場だ。
「遅いじゃないか」
「ゴメンゴメン。準備がうまくいかなくて」と翔太が謝った。
「それにしても今日の渋滞はまいったよ」と翔太をかばうかのように白上(しらかみ)が言った。
3人は、おむすびを買うとすぐに出発した。
「不思議だね。今は、スイスイ行くんだからね」とハンドルを片手に、白上はおむすびを食べている。
白上がこれからの予定を話し始めた。
「着くのは、日没まで2時間あるかないかだろう。適当なところに陣取って、まず、テントを設営。湯を沸かして珈琲を飲んで、お菓子食べて、帰り支度だ。もう少し早ければな~。・・・・」と細かい作業の説明がしばらく続いた。
違う学校に通っていた3人は、学生時代にアルバイト先で知り合った。趣味はそれぞれ違うが、なぜか気があった。就職後も連絡を取り合っていた。
今回の山登りは白上登(しらかみのぼる)が提案したものだった。彼は光輝より1つ年上だ。子どもの時から父親に連れられて山によく登ったそうだ。いつか3人で日本アルプスを登りたいとのことで、このたびの運びとなった。
杣山翔太(そまやましょうた)は、長峰光輝(ながみねこうき)と同い年。
当初の計画では昼頃に到着することになっていた。練習メニューは、テント張り、コンロを使っての料理と昼食、寝袋で昼寝、後片付けをして帰るというものだった。半日ほどで終わる予定だった。
白上の誘いに、2人は二つ返事で応えた。久しぶりだったし、日帰りというのが理由だ。
雲一つない青空。どこまでも澄みわたっていた。気晴らしなら、ドライブだけでもいいと思えた。
着いたのは、夕方にさしかかろうという頃だった。地平線の少しうえに太陽があった。おそらく、帰る頃までは明るいだろう。
駐車場は満車状態だったが、空きはすぐに見つけられた。ほとんどの車が帰り支度をしていた。
3人は車から降りると、リュックを背負った。
「なんて重たいんだ」
「フル装備だからな」と白上はニヤリとした。
3人は白上を真ん中に横一列になって、ビジターセンターへ向かって歩き出した。
ビジターセンターに着くと、白上が独り言のように言いはじめた。
「本当は、山の情報を仕入れて行くところだけど、時間がないので、ビジターセンターに寄るのはやめて、と。下見に一月前にも来たし、よく行く場所だしな。それに遊歩道から近いし」
ビジターセンターからいくつかの遊歩道が出ていた。どのコースもビジターセンターに戻るようになっている。その一つを白上は歩き始めた。2人は後をついて行った。
途中、カップルや家族連れにすれ違った。軽装備の人が多いし、夕方でもこの人出だ。手軽に楽しめるほど安全なんだと、光輝は何となくホッとした。
遊歩道の両端にはロープが張ってあった。遊歩道の外に出ないように注意喚起の札がロープの所々に吊り下がっていた。自然保護のためなのだろうか。
白上は「よし、ここを下りよう」と行って、ロープを跨(また)いで獣道のような所を下りていった。5分ほど進むとそれほど広くはないが平らなところに出た。遊歩道から数メートルほど下だが、岩のような出っ張りがあって、歩く人たちの目を遮っている。絶好の場所だ。
白上が帰ろうとする先客とあいさつを交わし、ほんのわずかな時間、何かを話していた。
「貸し切りだな」
「じゃ、テントを設営しようか」
白上の指図で、テント張りはすぐに終わった。コンロでお湯を沸かし、珈琲を淹(い)れた。テントの中に3人がはいると結構狭かった。飲みながら話をしていると、あっという間に時間は過ぎていった。
「ピッピッピッ」スマホのアラームが鳴った。「そろそろ時間だな」と白上は片付けをはじめた。太陽はまだ地平線の上にあった。
「2人で片付けてみて」
翔太と光輝はテントを片付けはじめたが、うまくいかない。テントがかさばって、キャリーケースに入らないのだ。
しばらく白上は見ていたが「じゃ、一緒にやろうか」と言って、最初からテントを片付けはじめた。すべての荷物をリュックにしまった頃、あたりは急に暗くなった。
「最後に、忘れ物がないか、チェックしよう」と言って、屈(かが)みながらテントのあったところを3人で確認した。
「オッケーだな。よし、帰ろう」といって、来た道を帰ることにした。
「おかしいなぁ」
「そろそろ、遊歩道にでるはずなんだが・・・」
「もう、10分は歩いている」「もう少し行ってみるか」
それからさらに数分歩いたが、遊歩道にでないし、ロープも見当たらない。
「遊歩道へは一本道だから迷うはずはないんだが」「引き返そう」 白上は来た道を戻りはじめた。
緩やかな下りと上りが繰り返された。しかし、テントを張った場所には戻らなかった。あの岩陰に隠れた平らな場所が見当たらないのだ。特徴のある岩や広場を見逃すはずがない。そして、同じ道を戻っているはずなのに、違う景色に感じる。
「おかしいな」「ちょっと休むか」「冷静にならないとな」「こういうときは、と」 白上は腰を下ろした。3人は、ほんの数分休憩した。
「テントの場所から2方向に道はあるが、どちらも遊歩道にでるようになっている。一本道で、脇道はないし・・」
「それに、遊歩道に向かって歩けば、ビジターセンターの灯(あか)りが必ず見えるはずなんだが・・・」
「道の間違えようがないんだが・・・」
白上は呟(つぶや)いた。
白上は目をつぶってしばらくして、「もう少し行ってみるか」と言い出した。
翔太も光輝も山は素人なので、白上について行くほかなかった。
それからしばらく緩やかなアップダウンを繰り返し歩いた。景色は同じようなものだが、やはり、はじめて通るような気がした。
ところどころ休みを取りながら歩いたが、それでも重い荷物が初めての翔太と光輝には応えはじめた。
「キツい!」翔太はリュックを背負ったまま仰向けになった。
その時、少し先を行く白上が何か大声で叫んでいる。
光輝は手を当てて耳を澄ませた。
「おーい、早く来いよ」小さいがはっきりと聞こえた。
翔太と光輝には何のことだかわからなかった。
光輝が翔太の手を取って起こすと、白上のところに行った。
「あそこを見ろよ。枝に白いものがぶら下がっているだろう」
白上は指をさした。
「目印だ」
「間違いない。運がよければ集落があるかもしれない」
3人は杉か檜の木立に入っていた。
歩くにつれ、所々にある白いものは道から外れてゆき、やがて見えなくなった。
それからすぐに、灯籠のようなものが見えはじめた。灯(あか)りはついていなかった。
「神社か寺だな。もう少しだ」
いくつか灯籠を過ぎたとき、うっすらと小屋が見え始めた。
着くと、そこには4、5軒の同じような小屋が、木立の間にあった。
「少し休憩しようか」白上はリュックを下ろした。
3人はリュックを背もたれにして座った。
「あーあ、肩と足がヒリヒリする」
「いや、こんなに重たいとは思わなかったよ」
「慣れれば、どうってことないよ」
小屋の影から2つの光るものが光輝には見えた。
「おい、あれなんだ」
「鹿か狐じゃないのか」
その時、2つ光が動き始めた。
「こっちに来るぞ」3人は身構えた。
老婆だった。手袋、頬被りをし、肌の露出がなかった。腰が曲がり、顔は下を向いたままで顔がわからなかった。ぼんやりとした白い灯りの提灯を持っていた。
「あんたらだれじゃ。こんな夜中に」
やたら低く、弱々しいしわがれた声だった。それでも、何を言っているのかはよくわかった。
「道に迷って・・・」
「迷い子さんか」
首が上がらないのか、3人の足下を見るかのように顔を動かしながら
「久しぶりじゃのぉ」何ともゆっくりと話す。
「ここはどこ?」
「この先を行けば、町に出られる?」
「ん、わしにはわからん。」
「ここを出たことがないでのぉ」
「ここは何人くらい住んでいるんだ?えらい静かだな」
「わししかおらん」
「外に鍵がかかっておるじゃろ。あれ全部、空き家じゃ」
「わしがすべて面倒を見ておる」
「そりゃ大変だ」
「だいぶ、疲れとるようじゃな」
「真夜中じゃし。夜道は危なかろう」
「家(うち)開けるで、朝まで休んでいったらどうじゃ」
「明るうなったら、道に迷うこともなかろう」
「いや、軒下だけお借りできれば・・・」と一度は断った白上だった。
このままでは2人はもたない。腹も空いている。ほんの少し横になって休めば、何とかなる・・・と、思い巡らしていたところだった。
・・・・・・
「さぁさぁ、遠慮せんと」と老婆は相変わらずゆっくりとした口調で、玄関の鍵を外して戸を開けた。
「それじゃ、お言葉に甘えて」
「そうせぇ、そうせぇ」老婆の声は少し高くなった。
あまりのしつこさと、そのうえ戸を開けてしまったので、白上は断れなくなった。
「どうぞ」
中は真っ暗だった。
「ライト、ライト」と白上はリュックを手で探った。
その時、老婆が奥からやってきた。
「お使い」と言って、ロウソクを燭台に立てた。それから、囲炉裏の灰を掘り起こすと、火が熾(おこ)った。白くてきれいな灰だった。
「出て行くときはロウソクの火だけを消しておくれ。そのまま行ってくれて構わん。何の断りもいらん。わしはもう寝るで。起こさんとってくれ」
「そしたらな」と言って、老婆は玄関からゆっくりと出ていった。
リュックを置いて振り返ると、すでに戸が閉まっていた。
「いつの間に、戸の開け閉めをしたんだろう」3人は不思議に思った。
「疲れているのかな」
ロウソクは明るくはないが、辺りがうっすらと見えた。ただ、魚を焦がしたような臭いがかすかにした。
「腹減ったな」「飯にでもするか」と白上はコンロをセットしはじめた。
「食べるものあるのか」
「十分にあるさ。昼に食べる予定だったからな」
途中スーパーに寄らなかったので、食糧はないと2人は思っていた。
「まさか、ここでキャンプの練習をするとはな」と言いながら、白上は鍋に食材を仕込みはじめた。
「いろりは、はじめてだな」
「それにしても、白い灰だな」
「炭?小枝?」「何を燃やしているんだろう。わからないや」
「荷物の風に、この灰は飛ばないんだな」
「それに、暖かい」「これなら、寝袋を出さずにすみそうだ」
「床が光っている」「あのばあさんしっかり掃除してんだな」
「そろそろできたんじゃないか」といって、白上が蓋を取ると、湯気が一気に立ち上った。3人は目で追った。
「上は柱しか見えないや」
湯気は灯りの届かないところで見えなくなった。
「おいしそうだな」
「いや、おいしいよ」
「空腹にまずいものなしって言うからな」
「失礼なヤツだな」
3人は、夢中で食べた。
「やっと、落ち着いてきた」
「俺もだ」
そのとき、光輝の器に何かが落ちた。器を見ると、カシスオレンジの色に似た液体のようなものが、汁ににじんでいた。
「こんなものが落ちてきた。これ食って大丈夫かな」
光輝が2人に見せると「湯気が結露して、滴(しずく)が落ちてきたんじゃないか」
3人は見上げた。小さい点が光っているように見えた。鍋の蒸気が滴にでもなったのだろうか。木の柱に水滴ができるんだろうか。口には出さなかったが、3人は不思議に思った。
「ちょっとぐらいなら大丈夫なんじゃ・・・」
捨てるわけにもいかず、気の小さいヤツと思われても・・・。それにもったいないし・・・。いいや、えいっ。
光輝は食べてしまった。
その時、部屋の奥から2つの光るものが近寄ってきた。
「おいしいかい」
老婆だった。3人はドキッとした。
いつの間に入ってきたんだろう。音がまったくしなかった。それとも、食べるのに気を取られていたからなのか。
適当にこたえて、食事を再開しようと、3人が器に目を移したときだった。
「私もご相伴にあずかろうかね」と老婆の声が聞こえた。今までとは違い、声に勢いがあった。
3人が声の方をむくと、頬被りの中に、血走った目と、開かれた大きな口があった。櫛のような細くて長い透き通った歯がむき出しになっていた。先は尖っていて鋭かった。その先端から、くすんだ橙色の液体が垂れ下がって滴となって落ちていた。
袖からは皺だらけの焦げ茶色の古木のようなものが見えた。腕に違いない。細長く透明で鋭い爪を振り上げている。
3人は思わずのけぞってしまった。
「うわー」
バケモノは一番近い翔太に襲いかかろうとしている。その動きはやたらに遅い。だれでもがかわせるようなスピードだ。おそらく、動物のナマケモノよりもはるかにおそいに違いない。
あまりの気持ち悪さと怖ろしさに、3人は戸口に向かった。
「おい、開かないぞ」
「押すんじゃない。引くんだ」
白上が替わって、戸を引いた。
「開かない」
しまった。鍵を掛けられている。
知らず知らずのうちに、戸を蹴っていた。腐っているのか、蹴った足の形で穴が開いた。何回も蹴ると、戸が外側にゆっくりと倒れていった。
「早く出よう!」
「おい、荷物だ!」
3人は荷物を急いで取りに戻った。
翔太のリュックは、バケモノより奥にあった。リュックをつかんだとき、通ったときの勢いでロウソクの炎を消してしまった。囲炉裏の灯りしか見えない。翔太は白上の呼ぶ方へ向かった。慌てて、バケモノの際(きわ)を通ってしまった。
「大丈夫か」
「バケモノに当たらなかったか」
「平気だ。何ともない」
「早く行こう」
奥で「ひっひっひっ」狂喜するかのような細く甲高いバケモノの声が聞こえた。
3人は早足で道を歩いた。
少しして立ち止まって振り返った。バケモノが恐ろしい形相(ぎょうそう)で追いかけてくる。その動きは止まっているようだった。
「あれだけゆっくりだったら、追いつけないだろう」
「いや、油断は禁物だ」
「とにかく、歩こう」
3人は再び歩きはじめた。
いくつか灯籠を過ぎると、小さいお堂があった。ぼんやりと輝(ひか)っているように見える。正面は上半分が格子の戸だった。中は小部屋になっているようだった。
「何があるんだろう」
「よせ!また、バケモノが出てきたらどうするんだ」
「それよりも、大丈夫だったか」白上が聞いた。
翔太が腕を見ると、茅(かや)で切ったような細く浅い傷が数本平行に走っていた。
「少し、血がにじんでいる」と言って、白上は水筒を取り出し傷口を洗った。
「メシのとき、腕をまくるんじゃなかった」
「まだ来るかもしれん」
3人は歩き始めた。
お堂を通り過ぎると最後の灯籠になった。近くの枝には白いものが結わえ付けられていた。それから、3、4分ほど歩いただろうか。前方から恐ろしく強くて白いまぶしいものが見えた。一瞬真っ暗になったかと思うと、あたりの景色が見えはじめた。
「朝日だ」
太陽が昇りはじめた。雲一つない真っ青な空だ。
3人は立ち止まっていた。
見渡すと、周囲は腰くらいの高さの笹の原っぱだった。
おかしい。木立の中を歩いていたはずなのに。しかも、道がない。立っているのは、原っぱの中だった。
「このまま尾根を行こう」白上を先頭に歩いた。
ほどなく、眼下に道が見えた。舗装はされていないが、車が通った跡があった。
その先を見ると木立に建物がかすかに見えた。湯気が出ている。
「やっと、だな」
3人は横歩きに斜面を下りた。すぐに、建物に着いた。駐車場には1台の軽トラがあった。
「誰かいませんか」と大声で叫んだ。
奥から「はい。はい」の声とともに足音が聞こえた。
「えらい早いね。まだ、開いてないよ」と高齢の男性が出てきた。
「・・・」
「お客さんじゃないね。どうした?」
「道に迷ってしまって」
「それは大変。どこから」
「ビジターセンター」
「それはそれは」
「タクシーの連絡先、わかります? それと電話を借りたいんだけど」
「いいけど、1時間は待つな」
「・・・」
「それに、朝早いからやってないかもしれん」
「ところでどこに行くんかね」
「ビジターセンター。車を取りに行きたいんだ」
「確かに車ならすぐだ」
「タクシー待っとるあいだ。温泉どうじゃ」
「準備中じゃが、今、ええ湯加減なんじゃ」
「一気に疲れ吹っ飛ぶぞ」
「・・・」
3人は顔を見合わせて、丁重に断った。
「これから勤めに行くんで・・・」
「そりゃ急ぐわな。あれでもよかったら送ろか」と、アゴで駐車場をさした。
「お願いします」
3人は頭を軽く下げた。
「まだ、十分(じゅうぶん)、間に合う」壁に掛けてある時計を見ながら3人は思った。
「おーい。じゃ行くか。乗りな」
軽トラの助手席には光輝が、荷台にはロープを手に持った白上と翔太がいた。ゆっくりとしたスピードで車は走った。
「夕べ、よう山ん中下りて来たな。何とも無かったか」と男性は話し始めた。
新月の日を挟んだ3日間、夜中の入山は村の約束事で禁止されている。作業が長引いて夜中になるといけないので、この3日間は、昼間でも村人は山に入らないのだそうだ。
約束事の由来も話してくれた。
昔、このあたりに飢饉があり、大勢の人が亡くなった。その時、若い女一人だけがやせもせずいた。しかも、肌つやがよい。ある村人が不思議に思い、その女の後をつけていった。すると女は粗末な山小屋で人の屍肉を食らっていた。白い骨が散乱していたそうだ。見られた女は村人を追いかけた。命からがら、村人は何とか逃げ帰った。
それを聞いた和尚さんは、修験者に女を退治するように頼んだそうだ。修験者は女に出会ったが、すでに妖怪になっていた。退治することもできたが、元は村人で女。しかも、飢饉で苦しんだあげくのこと。かわいそうに思った修験者は、外から鍵をかけ、山の小屋に妖怪を閉じこめた。やがては出られるようにしたので、食べ物が得られるほどの土地を使えるように結界を巡らした。
それから、妖怪も山小屋もどこかに消えてしまったそうだ。
ところが、男性の先祖から伝わる話によると、あるとき、猟師が山から戻ってこなかった。隣村にも手伝ってもらって探したが見つからなかった。それが新月の晩だったそうだ。近隣の村の中でも一番の猟師、道に迷うはずがない。妖怪の仕業ということで、村の約束事ができた。それまでにも新月の晩には奇怪なことがたびたびあったそうだ。
最近では、どこから聞きつけたのか村の約束事を知って、新月の晩に山に入った若い連中がいた。この村から入山したが、何日しても帰ってこなかった。警察や村人が若い連中を探したが、見つからなかった。熊に襲われたにしても、骨くらいは見つかるはずなのに。親父が酔うと男性にたびたび話したそうだ。謎の失踪事件として地元紙にも載ったらしい。
今のように登山者名簿はなく、名前も連絡先もわからなかった。無事に帰宅していたとしても確認のしようがなかったとのことだった。
「今では迷信だがな。当時のことを知る人はおらんし」
「実は、・・・」光輝が言い出そうとしたとき。
「着いたよ。お疲れさん」「あの車かね」
横に車をつけてくれた。
「ありがとうございました」
「気つけてな。それじゃ」
軽トラは、来るときとは違って、すごいスピードでタイヤをならしながら見えなくなった。
「やれやれ。帰るか」
あれ、ドアの取っ手に細い傷がある。光輝の目にとまった。
「車上荒らしに遭わなかったのはラッキーだったな」白上は車に乗り込んだ。
「さぁ、急ごう」
翔太と光輝は、鉄道の特急停車駅で車を降りた。翔太は会社へ向かった。白上は会社の近くに車を止めて出社するという。この日、光輝は休みを取っていた。
「ただいま」
「心配してたのよ。何かあったの」
「道に迷っちゃって」
「朝ご飯は」
「疲れたから、寝る」
「目が覚めたのね。うなされていたわよ」
「ここは。・・・どこ?」
「病院よ」
「なんで?」
「光ちゃんが目を覚まさなかったからよ」
「3日もよ」
「救急車でここに来たの」
「いくら起こしてもダメだったわ」
「えっ。ホントに!?」
「検査をしたんだけどね。異常はないし」
「でも、激痩せね」
「お医者様も原因がわからないそうなの」
光輝は自分の手を見た。皺だらけだった。しかも、浅黒くなっていた。
そういえば・・・。光輝は、白上や翔太のことが気になった。
「あいつら、どうしているんだろう」「会社、間に合ったのかな」
それに、小屋に置いてきたコンロをどうするのかも気になっていた。
「お母さん。スマホある?」
翔太に電話を掛けた。
「もしもし、翔太の携帯です」彼の母が出た。
「光輝君。翔太、どこ行ったか知らない?」
その日、そのまま定時に出社したのだが、早退し昼前に帰宅した。帰宅後すぐにリュックを担いで、忘れ物を取りに行くといって出ていったきり。スマホは家においたままで、連絡が取れない。警察に相談するか迷っているとのことだった。
白上のスマホに掛けたが、つながらない。会社に電話すると、休みを取っていた。家に電話すると、白上の母が出た。出社後すぐに大声で喚(わめ)きはじめ、だれも手をつけられなかったらしく、救急車で病院に運ばれた。検査をしたが異常はなかった。病室では、四六時中、黙ったまま壁を見つめているとのことだった。
山で何かあったのか聞かれたが、光輝は話せなかった。
「それにしても、不思議なできごとだった」光輝は振り返っていた。
一本道なのにどうして、道に迷ったんだろう。
新月・・・、真っ暗なはずなのに、ライトなしで山道を歩けたんだろう。それに、見えるはずの星がなかった。天気予報は、2日とも快晴だった。局地的に雲や霧がでる状況でもなかった。
3人のスマホや時計が一時(いっとき)に止まることがあるのか?今は使えるのに。
あの白いものは、結界を知らせるためのものだったのか?
あのとき、あの汁を食べなけりゃよかった。天井から落ちてきた滴はバケモノのよだれだったに違いない。
あれやこれやと考えると、渋滞から仕組まれていたとも思えてきた。一体だれが?あのバケモノが・・・。まさか。
「長峰さん。このままだと、もって3日くらいです。衰弱が早すぎる。せめて、病気が特定できれば・・・」
「今のうちに話をしておいてください。」
医師から告げられた言葉に、母の里香(さとか)は頭の中が真っ白になった。
醒めているのか寝ているかわからなかった。目を閉じて横になっている光輝の片手をとって、里香が話し始めた。
「亡くなったお父さんのことなんだけど。あなたと同じ山へ行ったのよ。朝方帰ってきたかと思うと、疲れたといって、横になったまま逝(い)っちゃったのよ」
「私、何が何だかわからなくて。あなたはまだちっちゃいし・・・」
「お父さん、山のこと何か言ってた?」光輝の声がかすかに聞こえた。
「言う間もなかったわ」
「実はね。お母さん」と光輝は声を絞り出した。
もはや、うわごとにしか聞こえない。
唇の動きが止まった。もう一方の手がベッドに滑り落ちた。
「ありがとうございました。」
「いや、たいへんだったね。」
「おかげさまで、無事に葬儀が済みました。」
「集会所をお借りできて助かりました。」
里香が自治会長へお礼のあいさつに来たのだ。
話をしながら息子の姿を思い浮かべていた。
ミイラのようになってしまって・・・。涙が出てきた。
「一人になってしもたな。気を強うもってな。困ったことがあったら相談にのるで」
「あら、また、お葬式」
「だれが亡くなったのかしら」
「10日も経っていないわよ」
通りかかった主婦が自治会長に声を掛けた。
「いや、わしも驚いたよ」
「部屋で倒れておったそうじゃ。訪ねてきた知り合いが見つけたらしい」
「お役所の人が葬式するっていうんで・・・」
「親戚もいないようでな・・・」
「それは、ご苦労様です。」
主婦はすぐに行ってしまった。
干し柿のように皺だらけで、焦げ茶色の古木のような・・・。すべてを吸い取られたように小さくなっとった。とても人とは・・・。
自治会長は、一連の出来事を思い出していた。
「拾える骨がなかった。真っ白な灰だけじゃった」
おしまい。